シューベルト歌曲集「冬の旅」作品89 D.911(全曲)歌詞の訳詞
Die Winterreise / Franz Schubert


冬の旅  ヴィルヘルム・ミュラー
訳詩:神崎昭伍
木川田誠の名演のパンフレットより

※テキストデータのためウムラウトなどは省略しています。



1. おやすみ Gute Nacht

2. 風見の旗 Die Wetterfahne

3. 凍った涙 Gefror'ne Tranen

4. かじかみ Estarrung

5. 菩提樹  Der Lindenbaum

6. 増水  Wasserfult

7. 川の上で Auf dem Flusse

8. かえりみ Ruckblick

9. 鬼火 Irrlict

10. 休息 Rast

11. 春の夢 Fruhlingstraum

12. 孤独 Einsamkeit

13. 郵便馬車 Die Post

14. 霜おく髪 Der greise Kopf

15. からす Die Krahe

16. 最後の希望 Letzte Hoffnung

17. 村にて Im Dorfe

18. 嵐の朝 Der sturmische Morgen

19. まぼろし Tauschung

20. 道しるべ Der Wegweiser

21. 宿 Das Wirtshaus

22. 勇気 Mut

23. 幻の太陽 Die Nebensonnen

24. 辻音楽師 Der Leiermann

シューベルト歌曲集冬の旅

シューベルト歌曲集「冬の旅」作品89 D.911(全曲)

関西ニ期会の木川田誠によるシューベルト冬の旅全曲集。
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解説「冬の旅」と木川田誠

大野 敬朗(1984年のパンフレットより)


 「人の一生は、重き荷を負いて、遠き道を行くが如し」といったのは、徳川家康だったと思う。いかにも「啼くまで待とう時鳥(ほととぎす)」の、家康にふさわしい。手ぶらでも、遠距離を歩くのは−というより歩かされるのは苦痛である。まして重荷を背負ってでは、その苦しみに耐えるしか方法はない。人生は、いうまでもなく何時終点が来るかわからない片道切符の旅である。何時終りになるのかがわからないのは、行く先は将校だけが知っている行軍に似ているが、全く違っている。苦しいのは同じでも、行軍では早く目的地に着いて苦業から解放されたいと思うのだが、人は誰も早い死を望まないからだ。荷は重くても、より長く生きたい、と誰でも思っている。というようなことを言っていると、もう目の前は真暗闇で、陰気でどうしようもないのが人生のようだが、実際はそうではあるまい。それは、人生そのものが旅だから。旅行に行くとき、どんなに荷物が重くても、さきの楽しみを思えば重いとは思わないのが、人情の常だろう。新しい土地への旅は、未知のものへの憬れを満たす期待に胸ふくらませ、再訪の土地では過去の自分との出会いを思う。いずれにしても、それは期待に満ちているのが普通である。しかし、「冬の旅」の世界は全く異なる。主人公は打ちひしがれた心の重荷を背負い、死を思いながら行方定めぬ道に歩みを進めるだけである。ここに、救いはない。

 ところで、多くの人は旅に憬れる。それは日常生活から離れて自由な空気に触れたいと思うからだろう。かつて、旅をするのはそれほど自由ではなかった。それには、さまざまな理由があったのだが、出来ないとなればより思いはつのる。まだ本当の恋を知らない少年時代に、美しい恋を夢見て恋に恋するようなものだ。旅は、想像の中で大きく育つ。だからこそ実際に旅をするとなると、日頃の生活とは全く違う自分になってしまう。「旅の恥はかき捨て」といった言葉は、そうした一面をよく表わしているといえよう。

 近頃よくいわれるのが管理社会。プロ野球まで管理野球というわけだ。しかし、管理社会は今に始まったことではない。昔から、大なり小なりそれはあった。よく知られているのは、徳川時代のしめつけのきびしさだろう。タテ割りヨコ割りのさまざまな組織の中に取りこまれ、そのそれぞれにしきたりや取り決めがあり、それにしばられていた。平穏に過そうとすれば、そうした煩わしいことを嫌がらずに、人並みに一若しくは人並みらしく−することだ。そうしなければ、暮していけない。仲間はずれにされるから。それが今では、法律とか、会社での規則とか、職場での取り決めと、いかにも近代的な装いになったにしても、煩わしいことに変りはない。それでもまだ最近までは、いくらか寛容であった。地域や会社などそれぞれの小社会に、いささか型破りな人がいて、そうした人達は好意的に”さむらい”とか”豪傑”といわれていた。そうした人達の行為は、型破りであるために、取り決めなどに違反することもあるのだが、時には締めつけの許容限度を押し拡げて緩衝帯を作る役目も果したのである。枠にしばられる自分を見つめるもう一人の自分を持つ余裕が、ある種の羨望をこめてそうした人の存在を許したのだろう。近頃、“さむらい”が少なくなったといわれる。世智辛く、心の余裕を持てなくなったのだろうか。または、寄らば大樹の陰とかで、権力志向が強くなり、型破りな存在を許きないことに協力する人が多いからだろうか。いずれにしても、日常生活はますますせせこましくなっている。そうした日常の煩わしさから逃れるのは、旅に出るしかない。とはいっても、団体旅行ではそのグループの、さらに旅行先でも国や地方によってきまりがあるわけで、完全に解放されるのではないが、束の間でも日常の枠には拘束されないで済む。旅先で、「家庭のしがらみから解放されてゴキゲンです」などと聞くのも、その辺の機微をいっている。特殊な場合を除いては、自ら求めて旅に出るのである。しかしながら、「冬の旅」の若者は、その土地に居られなくなって、多くの思いを残し乍ら、旅に出たのだ。何処に行くというあてもなく、である。

 ミューラーの24篇の詩は、誠に暗い。シューベルトは、この詩のすべてに付曲したが、これはさらに暗いものになっていろ。1827年といえば、シューベルトが世を去る前の年に当る。2月に前半が、10月に後半が書かれているが、どうしてこんなに暗い色合いに、塗りこめられたのだろうか。この曲を書いたとき、シューベルトはようやく30歳であった。敢えて“ようやく”というのも、普通ならばさてこれからという年齢だからである。わが身を振り返ってみても、多くの夢があり、その夢のためには重荷を負うのもいとわなかったからである。人間は誰でも死を思わないではないが、この年齢ではむしろ生を、未来への夢を語るのがふさわしい。それにもかかわらず、シューベルトは人世に絶望し、死を身近なものとして考えている。これはどうしたことだろうか。

 シューベルトは貧しかった。貧しかったといえば、モーツァルトも経済的に苦しかった。しかし、収入が少なかったのかといえば、それは多かったのである。欠如していたのは、ニ人とも収入ではなくて経済観念だったのである。シューベルトの歌曲は、多く出版されていた。少なくとも、売れっ子として人気があったのである。「冬の旅」は、前半が作曲してから約1年後の1828年1月に、早くも出版された。人気がなければ、こうはいかない。それにもかかわらず、シューベルトは知人の家を転々とする生活をしていたのである。

 もう一つ、シューベルトを苦しめたのは、永年にわたる持病である。この不治の病いのおかげで、シューベルトに未来はなかった。既に幻覚症状などが起っていたという。そうした状態のとき、彼は死を目前にあるものとして見据えたのではなかろうか。まさに、 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる  芭蕉

 こうした歌を表現するには、単に頭で考えただけの設計では、無理なのではなかろうか。かつて木川田誠は、「冬の旅」を歌った。木川田は、1957年(昭和32年)に東京芸大を卒業している。その当時から、何事も熱心であった。音楽についても、深く考える人で、頑固に自説を主張するにしても、それだけ根拠を持っていたからである。生来の声にまかせて、という側面があったにしても、それを大きな武器として、オペラをはじめさまざまな活動を行ってきた。そこに一貫していたのは、作品を検討し、より説得力を持つ表現への模索だった。そうした努力の積み重ねが、今日の木川田をつくりあげてきた。関西二期会のオペラ公演では、常連のように出演し、今やヴュテランとして活躍している。

 かつて「冬の旅」を歌ったとき、木川田はこの曲のすみずみにまで目を届かせ、きっちりと設計された演奏であった。つまりは、演出を考えたものではあったが、同時にそれがわかるほどに、ストレートだったことも確かである。おそらく、シューベルトの同じような作品ではあっても、「美しき水車屋の娘」であれば、将来に救いがあり、明暗の変化を持つだけに十分な成果を得られたに違いない。その意図を生かすふくらみを持たせるには到らなかったといえる。その後の活動は、それ以前にもまさる旺盛さだった木川田は、さらに多くのことを身につけたに違いないし、また、「冬の旅」そのものに対する考え方も変化しただろう。そうした彼が、今度はどんな「冬の旅」を聴かせてくれるだろうか。

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